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武藤きへい ドラマでは徳川家康をフルボッコにした設定だけど、、、

NHK大河ドラマ「真田丸」第4話「挑戦」で、織田信長に真田昌幸が諏訪に呼び出された時、
法隆寺で徳川軍の旗印を見て、昌幸が「三方ヶ原を思い出す」とつぶやき、
すかさず信繁が「武藤きへい!」って言うのですが、

その時点では、え?誰の話しているのかな~と思いながら見ていましたが、

ストーリーが進むにつれて、ようやく

「真田昌幸=武藤きへい」ということが理解できました。


戦国武将の事は、ゲームや本で結構知っていたつもりだったのですが、この事実は全く
知らなかったので、早速ネットで調べてみました。


正しくは「武藤喜兵衛」と書きます。


真田昌幸は、1547年に真田幸隆の三男として生まれます。同母兄に長男の信綱、次男に昌輝が
いたため、生まれた時点では真田家の家督相続の権利はありませんでした。


1553年に、甲斐武田家へ人質として7歳で甲斐へ送られて、武田信玄の奥近習衆として仕えます。


武田信玄は、昌幸の才能を早くから見抜き、かなり可愛がったと伝えられています。


やがて、武田信玄の母方の一族で武藤家という名門がありましたが、家督を継ぐ者がいなかった為に


昌幸は、家督を継ぎ、武藤喜兵衛と称し足軽大将を任じられたようです。


初陣は、1561年の15歳の時、第四次川中島の戦いで、足軽大将として出陣したと伝えられています。


1572年の26歳の時、三方ヶ原の戦いに参加しており、ドラマ真田丸では、昌幸が「泣きわめきながら
逃げていく家康の顔、今でもはっきり覚えているわ」とフルボッコにしたと言っていますが、

この部分は史実ではハッキリしていない為、脚本家の三谷さんの演出かもしれません。


1573年の4月に武田信玄が病死した後は、家督を継いだ武田勝頼に仕え、武藤喜兵衛は28歳の時に
勝頼の旗本衆になっています。


1575年5月の長篠の戦いで、長男・信綱と次男・昌輝が討ち死にした為、武藤喜兵衛は真田姓に戻り


真田昌幸として家督を相続しました。


いやぁ~この事実全く知りませんでした。歴史って突き詰めると本当に奥が深いです。


是非、真田丸のスピンオフ作品を制作して、で三方ヶ原の戦いで、武藤喜兵衛が
泣きわめきながら逃げる家康を追いかけるのを見てみたい。三谷さん宜しくお願いします。

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