守護神 矢沢頼綱
NHK大河ドラマ「真田丸」第22話「裁定」では、
沼田裁定が描かれていましたね。沼田城には真田、北条、徳川そして古くには上杉も関わり、大変戦略的に価値がある城とだというのがわかりました。
ドラマで
片桐且元が地図を使用しての説明、領土を綺麗に色分けして判りやすかったです(秀吉からは説明が長いと怒られてましたが)。この裁定のプレゼンの為に片桐さん一生懸命に手書きで地図を作ったんでしょうね。
さて、本能寺の変後、真田は沼田城を織田家臣の滝川一益からだまし取り、かすめ取り、勝ち取りますが、それ以降、沼田裁定で北条に沼田城を明け渡すまで、北条は沼田城に大軍を4度も送り込み攻めますが、
4度とも全て
矢沢頼綱の活躍により沼田城を守り抜いています。
(1)-1582年10月- 頼綱64歳
1582年7月上旬頃、真田は北条に臣従します。そして10月に北条に手切れを通告し、今度は家康に臣従します。これに怒った北条軍は、沼田城に北条氏邦率いる総勢
5,000の兵が攻めてきます。矢沢頼綱は、500の兵で城から出て、支城を攻めている猪俣邦憲の部隊と野戦を行い大戦果をあげます。
その後、矢沢頼綱は沼田城にて籠城し、三日間守り抜きます。北条氏邦は、沼田城は強襲では落ちぬと判断し撤兵します。頼綱は、この機を逃さず打って出て北条軍に打撃を与えます。
(2)-1585年9月- 頼綱67歳
家康の上田城攻略に呼応するように、沼田城には北条氏直ら率いる
30,000の大軍が攻め込みます。まず、頼綱は野戦に打って出ます。頼綱は名胡桃に逃走したと見せかけ、北条の部下猪俣能登を伏兵により敗走させます。
氏直は、沼田城に総攻撃をかけますが、頼綱は沼田城下に北条軍を誘い込み、火をかけ殲滅します。北条氏直は戦果もなく損害が大きくなった為、小田原へ撤退します。
(3)-1586年4月- 頼綱68歳
沼田城を諦めきれない北条氏直は、
70,000の軍勢で攻めてきます。対する頼綱の軍勢は2,000のみでした。この年は長雨で川が増水しており、頼綱はあらかじめ片品川の橋を全て破壊します。これにより北条軍の行軍は難航します。北条軍は、新しい橋を掛ける工事にかなり時間をとられますが、そこに頼綱からの矢文が届きます。
「北条軍は小勢の沼田に大軍で攻撃してくるというが未だ攻撃の気配がない。兵士も退屈している」
という挑発文でした。北条軍は怒り抑え、頼綱の投稿を促す返書を5/11に送りますが、頼綱は何処吹く風。北条軍は5/25にようやく橋を完成させ、沼田城になだれ込みます。しかし突撃した後ろで、せっかくかけた橋が破壊されます。退路を断たれた北条軍に前回同様、
鉄砲を一斉に撃ちかけて北条軍を殲滅します。またまた大きな痛手を負った北条軍は退却を余儀なくされます。
(4)-1587年2月- 頼綱69歳
北条氏直は4度目の正直で、家臣の猪俣邦憲と由良国繁に沼田城責めを命じますが、頼綱は片品川にて由良国繁の軍勢を撃破、猪俣邦憲を軽くあしらって孤立させています。
矢沢頼綱チート過ぎます! 北条軍30,000とか70,000とか少々兵数を盛っているような感じもしますが、それでも頼綱の兵数は圧倒的に少なかったと思います。まさに真田家代々のお家芸ゲリラ戦法で北条軍を手玉にとり見事に沼田城を守り抜いています。
しかし残念ながらドラマ「真田丸」でもあったように沼田裁定により、
1589年に沼田城を北条に明け渡すことになります。命懸けで守り抜いた沼田城を戦わずにあっさりと北条に明け渡した頼綱はさぞや無念だったことでしょう。
ドラマでは矢沢頼綱が、沼田城の柱に自分の体を縄で縛りつけて
「この城と共に生き、死ぬ!」
「わしはここに残る!」「わしはこの城で100年生きるんじゃ~!」と駄々っ子のように叫んで、暴れてましたが、気持ちわかりますね~
ドラマでは、北条家臣の
猪俣邦憲が沼田城明け渡しから半年も経たないうちに
名胡桃城強奪事件が起こり、秀吉も堪忍袋の緒が切れて、いよいよ
北条征伐小田原攻めが起こります。その後の沼田城および矢沢頼綱がどのように描かれるのか注目です。
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