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徳川家康 信長の命により正室は殺害されていた!?

NHK大河ドラマ「真田丸」で徳川家康が浜松城で登場するシーンでは、いつも阿茶局(あちゃのつぼね)が寄り添って子供を躾けるかのように、家康に爪をかんじゃダメとかお茶のおかわりはダメと言ったり、家康の発言や態度にイヤミを言ったりと二人の掛け合いがとても楽しいですね♪
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しかし、テロップにもあるように阿茶局は側室です。側室は跡継ぎを残すために寵愛を受ける存在であって、このドラマのように、側室が常に寄り添い寵愛を受けるのは、正室の立場が軽んじられ、家臣はいい顔をしないと思うのですが本多正信や本多忠勝は、阿茶局が家康の側にいても、まったく気に留めている素振りはみせません。

ドラマ「真田丸」では、まったく家康の正室は登場しませんが、それもそのはず。この時期、家康は正室がいませんでした。実は、信長の命令により家康の正室は殺害されていたんです。家康、36歳の時でした。

家康の正室の本名は不明ですが、一般的には築山殿(つきやまどの)築山御前(つきやまごぜん)と呼ばれています。
1557年に今川家の人質として駿府にいた家康(当時は、松平元信)と結婚し、正室となります。そして1559年に長男の竹千代(松平信康)を産みます。

1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討たれた後、家康は今川家を裏切り駿府には戻らず岡崎城に入り、信長と同盟を結び独立を果たします。
1567年、長男・信康と織田信長の長女・徳姫が結婚し、3年後の1570年に家康は浜松城に移りますが、築山殿は息子の信康と共に岡崎城に残ります。
徳姫は、二人の女子を生みますが、男子が生まれない事を心配した築山殿は、元武田家臣の娘を信康の側室に迎えさせます。
結婚当時は信康と徳姫の夫婦仲は良かったようですが、このことがきっかけで二人の仲は冷めていきました。

また、徳姫は築山殿にとって、叔父にあたる今川義元を討った、にっくき信長の娘であり嫁姑の仲もあまりよくなかったようです。
我慢の限界を超えてしまった徳姫は、1579年に父親である信長に「十二ヶ条の訴状」を書き送ります。その訴状の中に信康と築山殿が武田家に内通しているという項目があり、これを見た信長は、家康に2人を殺すように命令します。

信長に逆らうことができない家康は、仕方なく部下に命じて築山殿を斬り殺し、その半月後、信康に切腹させます。
「築山殿殺害事件」に関しては、諸説あり、徳姫のでっちあげ説や信長が徳川の勢力を削ぐ為にやった陰謀説などがあり、築山殿は全くの濡れ衣だったとの意見もあります。しかしながら真相は闇の中です。だまし討ちで背後から斬られたようで、本当に哀れです、、、。

殺害された理由はどうあれ、この後1586年に豊臣秀吉の妹・朝日姫を正室を迎えるまでの7年間は正室はいませんでした。
家康には側室が判っているだけでも15人はいたようですので寂しい思いはなかったと思いますが、、、。それにしても、家康は子供の頃から、波乱万丈の人生を送っていますね。

自分の妻と息子を上司に命令され、信長に絶対に背けない家康、、、果たして、その心中は如何なものだったのでしょうか。

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