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第1次上田合戦 上杉景勝の援軍が老人や子供ばかりには理由があった!!

NHK大河ドラマ「真田丸」第13話「決戦」では、序盤のクライマックスとなる第1次上田合戦が1話まるまる使って描かれましたね。上田城下や二の丸には杭や柵、トラップなど細かく設置されておりNHK制作スタッフ気合いが入りまくりでした。

徳川軍が次々と罠に引っかかる姿を見て、ネットでは「ピタゴラスイッチ」「風雲!たけし城」「ホームアローン」「ドリフ」なんて感想もありました。

さて、番組冒頭で、信繁が海津城に到着すると、直江兼続がかき集めた100人の援軍とは、老人や子供ばかりでした。
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第12話で直江兼続が「真田と手を結んだ以上、すぐにでも援軍を出したいところだが、当家には無理だという事はお分かりのはず。」と信繁に言っているし、

「領内から取り急ぎ戦える者をかき集めました。 屈強な者たちはとうに出払っておりますが、それでもなんとか100名ほど集まりました。」と上杉景勝に言っています。

また、信幸の「上杉からの援軍は? 」の問いに出浦昌相は「あまり期待しない方がよかろう。上杉も今はそれどころではないはず。」と答えています。

実はドラマでは語られていませんが、本当に上杉軍はそれどころではなかったんです。

上杉景勝は、織田信長の死後、秀吉と交流を持ち、1583年の槍ヶ岳の戦いや1584年の小牧・長久手の戦いで秀吉と連携して戦いを行っています。

1584年11月に小牧・長久手の戦いが終了し、徳川家康を臣下にした羽柴秀吉は、徳川側に味方にした諸将の討伐を次々と始めます。

1585年7月に上杉景勝は、真田家の帰順を認めており、翌月の8月に第1次上田合戦(神川合戦)が勃発します。

そしてまさに同時期の1585年8月に、羽柴秀吉は未だ反抗を続けていた佐々成政を征伐する為に越中攻めを行います。(富山の役)
上杉景勝は、秀吉と連携して越中の佐々成政を攻めることになり、上杉軍の屈強の兵士達を春日山城に集めていました。
また、新発田重家との抗争も未だに収まっておらず、こちらの兵も残さないといけない状態でした。
ちなみに、佐々成政と新発田重家は、ドラマでは登場せず、3Dマップで名前だけ確認できます。
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そんな訳で、前述した直江兼続のセリフの通り、上田城に援軍を送ろうにも兵がいなかったのです。真田家もそれを承知して徳川軍と上田合戦に臨んだ事だと思います。

それにしても、兼続の取り急ぎかき集めた、戦える者が老人や子供とは、、、と思いましたが、
調べてみると上杉景勝が北信濃国衆に命令書を出しており、15歳以下の子供と60歳以上の老人に出陣を指示しており、海津城に配置したかは定かではありませんが実際に老人や子供を召集しており史実通りなんです。

ドラマで直江兼続が「急いで集めた者たちだ。どのように役に立つか見当もつかんが、とりあえずお預けする。」と言ったときは、戦闘につかえそうもない人をとりあえず100人かき集めただけじゃないかよ~と思いましたが、ドラマの裏にそのような事情があった事が後で判り納得しました。

兵がいなくとも従属した際の約束を守る、上杉景勝なりの義を示したんでしょうね~

その後の直江兼続が信繁に「ご武運お祈り致す。ニヤリ」を言った時、ついにクールな兼続がデレたと思ったのは私だけではないでしょうね。
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