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戦況説明の3D地図 「信長の野望」そのもの!

今回の大河ドラマ「真田丸」今までの戦国時代を描いた作品と比べて、最大の特徴は、立体的な
マップを使用して、戦況を説明してくれます。刻々変化する勢力が非常に判りやすいですよね。

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特に、真田の郷である信濃は山々が多くて、毎話、3Dマップで説明してくれると、当時は山越えが
大変だっただろうな~と感じます。

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そんな3Dマップ見てて、歴史ゲーム「信長の野望」を知っている人なら、感嘆したのでは
ないでしょうか?

それもそのはず。コーエーテクモの傑作ゲーム「信長の野望・創造」のフル3D全国一枚マップ」の
CGをそのままNHKに技術提供して、ドラマ映像用に変換。
ゲームプロデューサーのシブサワ・コウが監修しているとの事です。

オープニングにもシブサワ・コウの名前がクレジットされてます。

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シブサワ・コウさんは、コーエー(光栄)における「信長の野望シリーズ」「三國志シリーズ」など、
数々の歴史趣味レーションゲームのプロデューサーでゲームをスタートするとオープニングに名前が
でてきます。

ちなみにシブサワ・コウは、コーエーの創業者・襟川陽一さんのペンネームだそうです。

初代「信長の野望」は30年以上も前の1983年3月に発売されました。その当時はパソコン戦国時代。
各メーカーが覇を競いあい、次々と新しいパソコン機種が登場しました。

当時のパソコンは、メーカーによってハードの仕様が違っていた為、ソフトメーカーは対応ハードで
動くように制作する必要があり、ソフト会社はかなり大変だったのではないでしょうか。

さて、信長の野望ですが、口コミが広がり、じわじわと売れ続け、要望にこたえ、様々なパソコン機種に
対応していくうちに、なんと38機種のパソコンに移植されたとの事です。

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私が子どもの頃は、パソコンが非常に高価であった為、買ってもらえず、ファミコンの
信長の野望・全国版」で遊びまくりました。

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現時点での最新版は2013年に発売された「信長の野望・創造」ですが、2016年3月に最新作
信長の野望・創造 戦国立志伝」が販売されるらしいです。

最新作ではシリーズ史上初の「武将プレイ」がついに実現したそうで、真田信繁(幸村)でプレイして
「大阪の陣」のエピソードも楽しめるとか。史実では、儚くも敗れてしまいましたが、ゲームでその
うっぷんを晴らすことができるでしょう。

また、ドラマ「真田丸」とコラボしたシナリオやイベントもありそうです。

是非、「真田丸」をテレビで楽しみながら「信長の野望・創造 戦国立志伝」をプレイしたいですね。
発売が待ち遠しいです!

武田氏滅亡から本能寺の変まで なんだかストーリの展開が早すぎない?

NHK大河ドラマ「真田丸」第4話「挑戦」での織田信長の初登場シーン、今までの大河ドラマ中でも
インパクトのありましたね~ ゾクゾクしました。

今回の信長を演じたのは、俳優の吉田鋼太郎さん。2014年にNHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」
で炭鉱王の嘉納伝助を演じて、注目を浴びました。

最愛の妻が、駆け落ちして絶縁状を見て「こげなもーーん!!」と叫びながら、家の中で荒れ狂う
シーンは、哀愁がだたよって嘉納伝助が、ちょっと可愛そうになったのを思い出します。


さて、そんな切れ芸を見せてくれた吉田鋼太郎さん、真田丸のドラマでもお約束通り切れ芸を
見せてくれました。


法隆寺で織田信長が明智光秀を「お主が何をしたのじゃぁー」と殴る蹴るの暴行をします。

(なぜボッコボコに至ったかは、こちらに詳しく書いています)
      ↓   ↓   ↓
織田信長 明智光秀をフルボッコしたのは何故?

嘉納伝助ばりに切れてましたね。暴行後の光秀の怪しい笑みに怯え後ずさる信長の演技も
さすがは吉田鋼太郎さんでした。

このフルボッコ事件が、本能寺の変の遠因になっているという説もあります。


さて、ドラマ後半で織田の人質となった松とお供する真田信繁が、安土城下についたその夜に
なんと本能寺の変が発生!! しかも信長の死は、ナレーションが伝えるだけのあっさり。

なんだかストーリーの展開が早すぎない?と思ったのは私だけではないでしょう。


これは、史実と照らし合わせてどうなのよ?と思い、武田氏滅亡から本能寺の変までを
時系列で調べてみました。


1582年2月 1日 木曽義昌 離反
1582年2月 3日 織田信長 諸将に武田領侵攻を発令(甲州征伐)
1582年2月12日 織田信忠 岐阜城を出陣
1582年3月 1日 穴山梅雪 離反
1582年3月 2日 織田信忠 高遠城を総攻撃
1582年3月 4日 徳川家康 甲斐に進行開始
1582年3月 5日 織田信長 安土城を出陣
1582年3月 7日 織田信忠 甲府に侵攻
1582年3月11日 天目山にて武田勝頼自刃 武田氏滅亡
1582年3月21日 織田信長 諏訪に到着
1582年3月29日 織田信長 諏訪法華寺にて論功行賞を行う
1582年4月10日 織田信長 甲府を出発
1582年4月21日 織田信長 安土城に凱旋
1582年6月 2日 本能寺の変 織田信長死亡


色々と調べていたら、時系列細かくなってしまいました、、、。

真田丸でナレーションが言っていた通り、武田氏滅亡から本能寺の変までわずか3ヶ月しか
経っていませんね。


ドラマでは、5月末に真田信繁と松が、真田の郷より安土へ向けて出発し、
6月1日に安土到着したことになっていますが、史実との整合性はとれていますね。

ここでも可能な限り史実に近いものにすると言ってる、脚本家の三谷幸喜さんは、
歴史をよく勉強しています。


しかし、ドラマ「真田丸」の本能寺の変は、あまりにもあっさりすぎ!

信長の最後のシーンもなく、本能寺で信長の甲冑が崩れ落ちるだけ。映像的に1分弱でした。

大河ドラマ史上、超高速の本能寺の変だったのではないでしょうか。


というわけで、吉田鋼太郎さん、これにて大河ドラマ退場です。


セリフ的には「真田安房守か?」「よき面構えじゃ」「お主が何をしたのじゃぁー! 申してみよ!」
たったこれだけです。あまりにも贅沢な吉田鋼太郎さんの使い方です。

嘉納伝助ファンにしてみれば、ちょっと物足りなかったな~

武藤きへい ドラマでは徳川家康をフルボッコにした設定だけど、、、

NHK大河ドラマ「真田丸」第4話「挑戦」で、織田信長に真田昌幸が諏訪に呼び出された時、
法隆寺で徳川軍の旗印を見て、昌幸が「三方ヶ原を思い出す」とつぶやき、
すかさず信繁が「武藤きへい!」って言うのですが、

その時点では、え?誰の話しているのかな~と思いながら見ていましたが、

ストーリーが進むにつれて、ようやく

「真田昌幸=武藤きへい」ということが理解できました。


戦国武将の事は、ゲームや本で結構知っていたつもりだったのですが、この事実は全く
知らなかったので、早速ネットで調べてみました。


正しくは「武藤喜兵衛」と書きます。


真田昌幸は、1547年に真田幸隆の三男として生まれます。同母兄に長男の信綱、次男に昌輝が
いたため、生まれた時点では真田家の家督相続の権利はありませんでした。


1553年に、甲斐武田家へ人質として7歳で甲斐へ送られて、武田信玄の奥近習衆として仕えます。


武田信玄は、昌幸の才能を早くから見抜き、かなり可愛がったと伝えられています。


やがて、武田信玄の母方の一族で武藤家という名門がありましたが、家督を継ぐ者がいなかった為に


昌幸は、家督を継ぎ、武藤喜兵衛と称し足軽大将を任じられたようです。


初陣は、1561年の15歳の時、第四次川中島の戦いで、足軽大将として出陣したと伝えられています。


1572年の26歳の時、三方ヶ原の戦いに参加しており、ドラマ真田丸では、昌幸が「泣きわめきながら
逃げていく家康の顔、今でもはっきり覚えているわ」とフルボッコにしたと言っていますが、

この部分は史実ではハッキリしていない為、脚本家の三谷さんの演出かもしれません。


1573年の4月に武田信玄が病死した後は、家督を継いだ武田勝頼に仕え、武藤喜兵衛は28歳の時に
勝頼の旗本衆になっています。


1575年5月の長篠の戦いで、長男・信綱と次男・昌輝が討ち死にした為、武藤喜兵衛は真田姓に戻り


真田昌幸として家督を相続しました。


いやぁ~この事実全く知りませんでした。歴史って突き詰めると本当に奥が深いです。


是非、真田丸のスピンオフ作品を制作して、で三方ヶ原の戦いで、武藤喜兵衛が
泣きわめきながら逃げる家康を追いかけるのを見てみたい。三谷さん宜しくお願いします。

織田信長 明智光秀をフルボッコしたのは何故?

NHK大河ドラマ「真田丸」第4話「挑戦」で、ついに吉田鋼太郎さんが演じる織田信長が
登場しましたが、レザーブーツに襟元がフリルの服で、なんだかリア王っぽい、
ラスボス的な第六天魔王と呼ぶにふさわしく、貫禄ありありでした。


同時に、作家で伝統文化評論家の岩下尚史さんが演じる明智光秀も初登場しますが
公家っぽくてちょっとキモい、おねえキャラで、今までの明智光秀のイメージと
全く違いビックリ!


さてさて、ドラマの終盤、織田信長が明智光秀に対して「お主が何をしたのじゃぁー」
「申してみよ!申してみよ!申してみよぉー!」と激怒しながら欄干に光秀の頭を
打ちつけてたシーンがありましたが、なんで信長は切れて光秀をフルボッコにしたのでしょうか。


天正10年(1582年)に3月5日、明智光秀は武田氏と最終決着の為、甲州征伐に信長に従軍します。
この時は、先行していた信長の息子、織田信忠が戦闘の主力であった為、見届けるだけだったようです。


3月11日、武田勝頼が田野の地で自害し、武田氏が滅亡すると3月19日に織田信長自ら上諏訪に入り、
約2週間、諏訪法隆寺に本陣を構えます。

信長が法隆寺に滞在中、徳川家康をはじめ武田討伐に加わった多くの武将が謁見に訪れました。
(ドラマで信長と真田昌幸・信繁親子が対面したのもこの場所ではないかと思われます。)

戦勝祝の席で「我々も骨を折った甲斐がありました」と明智光秀が言ったところ、信長は激怒し
「お前ごときが何をしたというのだ!」と居並ぶ諸将の前で、光秀は殴られ、蹴られ、投げられ、
欄干に頭を押し付けられたという話が「明智軍記」に書かれています。


短期な信長にしてみれば、光秀は何も手柄を立てた訳ではないのに何を偉そうにという思いから
光秀を折檻したのでしょうが、これが3ヶ月後の本能寺の変の原因の一つになったのかもしれません。


ドラマでは、散々痛めつけた後、光秀が不気味な笑みを浮かべて、信長が怯えたように後ずさりする
シーンはインパクトありましたね。

織田信長、明智光秀ともに、今回をもってドラマから退場です。もうちょっと二人のからみを
見たかった気もしますが、真田視点での大河ドラマなのでこれでよいのかも。
しかし、贅沢な役者さんの使い方ですね。

真田信繁の姉 松(まつ) 史実でも行方不明になった!?

NHK大河ドラマ「真田丸」第6話「迷走」皆さん見ましたか?

先週の第5話の終盤、真田信繁は、安土城から姉の松とその他大勢の人質を救いだし、
明智勢の追手からから逃れる展開でしたが、こんなに女子供沢山引き連れての逃亡は無茶だろうと
思っていたけど、案の定、追手に襲われ、人質達はてんでんバラバラになってしまい、

追い詰められた松は、琵琶湖に身を投げちゃいましたね。まぁその後、地元の漁師に助けられ
記憶喪失なったようですが、ともかく松は生きていました。


このドラマチックな展開は、オリジナルではなく、どうも史実でも本当に行方不明になったそうです。

史実では、真田信繁の姉は、村松殿と呼ばれており、真田信繁の兄、信幸の1つ上のお姉さんで、
長姉として、信幸、信繁に敬愛されていたらしいです。1582年に小山田茂誠の正室になっています。


沼田真田藩の家臣で、祐筆を務めた加沢平次左衛門が江戸時代初めに書いた手記「加沢記」によれば
村松殿は、武田氏滅亡後、真田昌幸が織田に臣従する誓いとして、村松殿は、人質として安土に行き、
本能寺の変の際に行方不明となり、桑名(三重県)で渡し守にかくまわれ2年後に桑名で保護されるとの
記述があるんです。


いやぁ~ このようなマニアックな設定を採用するとは、真田丸の脚本家である三谷幸喜さん、
本当によく勉強しています。可能な限り史実に近いものにすると言っているのは本当なんですね~


さて、木村佳乃さんが演じる記憶喪失になった「松」は、史実通りにドラマが展開するならば
2年後に保護されるわけですが、どのように記憶が戻って、夫の小山田茂誠と再開するか、
とても楽しみです。

徳川家康 伊賀越えの真実

いやぁ~ 真田丸の第5話「窮地」を見ての感想、何と言っても今回のMVPは、徳川家康御一行で
決まりでしょう!!


京都本能寺で、織田信長が明智光秀に謀反にあったことを知るやいなや、堺にいた徳川家康は、
明智勢の落ち武者狩りとの遭遇を回避するために、家臣数十名と伊賀越えルートで、
家康の領国の三河まで逃げ帰ったんですが、

ドラマでは所々で、徳川家康は半べそかきながら、山道を逃げるシーンはまるでコントのようで
笑ってしまいました。


伊賀国では、服部半蔵が迎えにきて、これで安心と思いきや冷静な口調で「急なことゆえ、
あちこち抜けております」といって「押し通します!」と半ばヤケクソで道中、駆け抜ける
シーンは面白かったですね。


途中、休憩で徳川家康と本田忠勝がおにぎりを食べながら、笑顔でイチャイチャしながら米粒を
取ってあげるシーンはなんだかほっこりしました。

その後に服部半蔵の「全力で押し通します!」のセリフの後の家康の諦めの表情で
「またか、、」のセリフにも笑いましたね~


さてさて、徳川家康の伊賀越えですが、そもそもなぜこのような事態になったかと言うと、当時、
信長と家康は同盟関係で家康は信長の招きで、わずかな家臣を連れて京に向かう途中堺で
明智光秀の謀反の報せを聞いたようです。


家康は、信長の死を聞いて取り乱し、京に上り松平家にゆかりのある知恩院に駆け込んで
自刃するつもりだったのを本多忠勝を初めとする家臣に説得され、三河に帰ることを
決めたようです。このシーンは真田丸のドラマの中でもありましたね。


伊賀越えに随行した家臣は、ドラマでは、本多忠勝と石川数正その他足軽数十名でしたが、
実際には徳川四天王をはじめとする重鎮34名だったようで、もし伊賀越えが失敗して家康一行が
全滅したら、今の日本は歴史が随分と変わっていたかもしれません。


真田丸のドラマでは、服部半蔵が道案内役で全力で押し通して、落ち武者狩りと交戦しながら
山道を走り抜けるシーンが何度かありましたけど、実際は随行した京都の豪商、茶屋四郎次郎が
武装した農民に金銭を渡して道を開けさせていたようです。
徳川家康は、この時の恩により茶屋四郎次郎を御用商人として取り立てました。


それから武田勝頼を裏切り、徳川家康の与力となった穴山梅雪も家康と一緒に堺にいて、
共に畿内の脱出を試みますが、家康とは別ルートを通り、土民に襲撃に遭い殺害されたと
言われています。まさに運命の分かれ道だったんですね。


ドラマも大体、史実どおりでしたが、穴山梅雪が「あんな奴(家康)と心中できるか!」といって、
林道に消えていき、そのまま土民に襲われるシーンもなく退場したのはなんともあっさりでしたね。
穴山梅雪を演じた榎木孝明さんをこういう形で終わらせるとは、なんとも贅沢なドラマです。


なんだかんだで、無事岡崎城に帰り着いた徳川御一行。諸説ありますが、本能寺の変が6月2日で、
6月4日の夜には岡崎城に帰り着いたと言われています。家康の安堵感の表情が
何ともいえませんでしたね。

ともかく命からがら伊賀を超えて自領に逃げ帰った家康ですが、真田丸で内野聖陽が演じている
徳川家康は、今までの狸おやじのイメージとは程遠く、臆病で小心者のようなイメージです。
ここからどのように戦略を立てながら天下人となっていくのか楽しみです。

なぜ 主人公の名が真田幸村ではなく真田信繁なのか?

いよいよ待望のNHK大河ドラマ「真田丸」が始まりましたね! 真田幸村が主人公のドラマが
1年間楽しめるとあって、本当にワクワクしています♪


しかし、第1回目のオープニングを見て何か違和感がありませんでしたか?


そう、主人公の名前が真田信繁(のぶしげ)になっているではありませんか!

真田幸村が主人公のドラマじゃなかったのか?

まぁドラマを見ているとナレーターから、信繁=幸村って説明があるんでわかりますけどね。


真田幸村の名前は、本でもテレビでもゲームでもメジャーですが、信繁って、
歴史マニアの人しか知らなかったのではないでしょうか。私はドラマが始まって知りました。


実は「信繁」のほうが実名なんだそうです。「幸村」は大阪夏の陣から60年近く経った、
1672年に書かれた軍記物語「難波戦記」で初めてお目見えする名前なんだとか。

因みに祖父の名は「幸隆(幸綱)」、その長男「信綱」、次男「昌輝」、三男「昌幸」、四男「信尹」
そして昌幸の長男が「信幸(信之)です。


真田家の通字が「幸」だそうで、江戸時代に史実から軍記物、小説が創作され、宿敵である
徳川家康に果敢に望んだ英雄的武将として、幸村が正当な真田の系譜であると庶民の間に
広がったのかもしれません。


まぁ、三国志正史の張飛益徳(えきとく)、創作物語の三国志演義の張飛翼徳(よくとく)みたいな
ものと思っていればいいでしょう。


今回、真田丸の脚本家である三谷幸喜さんは、可能な限り史実に近いものにするためには
「幸村」の名前は邪魔になり、どうしても「信繁」じゃないといけなかったと語っているそうです。


まぁ、しかしこの大河ドラマが終わっても信繁の名がメジャーになるとは思えませんね。
だって、真田幸村の名前のほうがあまりにも庶民に浸透しているし、なにより言いやすいし、
名前のゴロがよく覚えやすいですしね。


とりあえず視聴者は、信繁=幸村と脳内で変換して、ドラマを楽しめばいいんじゃないでしょうかね。


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